| 『破壊と混迷の十字路・アフガニスタン取材記』 | ||
▼URGENT(緊急、重大)ニュース 「カシャ、カシャ。カシャ、カシャ」という、リズムを敲くような音が絶え間なしに部屋の中に響いていた。 世界中のニュースを受けるテレックスの出す音である。 1988年8月18日の未明、渋谷のNHK放送センターの5階にあった報道局映像取材部で、私は世界中から送られてくる国際ニュースのチェックをしていた。もうすぐ渋谷の街にも陽が差そうかと言う時、私の目に飛び込んできたのは、パキスタン国営放送が伝えるURGENT(緊急、重大)ニュースだった。 外電は、8月17日夕(日本時間18日未明)ジアウル・ハク同国大統領と同国軍幹部、駐パキスタン米大使らが搭乗していたパキスタン空軍輸送機C130が同日、パキスタン東部のラホール南方で、爆発して墜落、ハク大統領を始め全員が死亡した、と報じていた。 国営放送によると、ハク大統領はレイフェル米大使らとともに、バハワルプールを視察する予定で、東部の都市ラホールを出発したが、同機は離陸数分後に空中で爆発、炎上して墜落したという。 報道局の部屋がざわめき出した。「おーい、泊まり勤務。すぐパスポートを用意しろ」ニュースデスクが大声で指示を出した。 このニュースが重大だったのは、ハク大統領の死という事だけではなかった。 それ以上に、彼の死による当時十年に及びソ連軍が占領していたアフガニスタン問題への影響こそが、ニュースであった。 ハク大統領は、ソ連に後押しされていた言わば傀儡の性格が強かったアフガニスタンのナジブラ政権に対抗していた反政府イスラムゲリラ勢力にとって、最大の支援者であったからである。 もちろんハク大統領の後ろには大国アメリカがいた。88年の5月に始まったソ連軍の撤退は、まだ半分しか進んでいなかった。反政府勢力もまとまっていなかった。ハク大統領の死はその後のアフガニスタン情勢に、大きく影響するものであった。 | ||
▼胸の中のパスポート 当時、私は前の任地沖縄から東京に上がったばかりの、報道局では新人扱いであったが、特派員志望であった私はいつも、カメラマンジャケットの胸ポケットに、パスポートを入れていた。 「デスク。準備できました。」私は先輩達よりも先にデスク席に出向いた。デスクは一瞬、「新人か」という戸惑いの表情を見せた。パキスタンでの大統領の葬儀の取材はニューデリー駐在の特派員でできるが、アフガニスタンへは東京から特派員がでなければ取材できない。しかもビザの取得には時間がかかる。他社との競争もある。一刻も早く手続きをしなければならない。 横にいたサブデスクが「こいつは、沖縄で5年間、米軍取材を担当していて、英語もできます」と助け舟を出してくれた。 「よし、やってみろ」デスクの英断で私が担当することになった。 私は朝一番で、当時、原宿の表参道にあったアフガニスタン大使館にビザの手続きに向かった。NHKの放送センターから走って10分だった。 19世紀フランスの微生物学者パスツールの遺した言葉に「チャンスは準備された心を好む」という言葉があるが、まさにこの時は特派員を目指して勉強しパスポートを常に携帯していたことで掴んだチャンスだった。 アフガニスタンのビザを取得するのには時間が掛かった。当時、アフガニスタンに限らず、社会主義体制下にあった国々のビザ取得は難しく時間が掛かった。特にアフガニスタンは内戦下にあり尚更だった。私は10分の距離を日参した。ビザが降りたのは1ヶ月後だった。 私は、夏も終わり秋が訪れていた9月下旬、成田からアフガニスタンに飛んだ。 | ||
| 「2.ソ連軍、アフガニスタン侵攻」に続く | ||