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space『破壊と混迷の十字路・アフガニスタン取材記』vol.2space
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アメリカの最前線基地パキスタン

パキスタンのハク大統領の墜落死に、ハク政権下のパキスタンを南西アジア政策のかなめと位置づけてきた米政府は強い衝撃を受けた。
当時、休暇中だったレーガン大統領は、即座に、ハク大統領が三百万人ものアフガニスタン難民を受け入れてきたことを評価、「深い悲しみ」を表明した。

レーガン大統領が重大な憂慮を表明したのは、パキスタンが、南西アジアの大国で親ソ連のインドと対立し、アフガニスタンと接し、石油の世界的輸送ルート、ペルシャ湾、インド洋に臨むという戦略的に重要な位置を占めていたからである。

その重要性から、レーガン政権は、10年に及ぶハク政権が強権的体質であったにもかかわらず、支援を与え続けていた。
特に、アフガニスタン問題では、アフガン国内の反政府ゲリラへの武器援助をパキスタンを介して行っていた。パキスタンは、米国のアフガン政策の最前線国だった。米国のパキスタンへの経済・軍事援助は、年間平均六億ドルを超えていたのであった。


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ソ連版ベトナム戦争

ソ連首脳は初期段階では介入はアフガニスタンの内戦状態にもよるが、そう長くなるとは思っていなかったのではないかと見られてもいた。
しかし、紛争は、外国軍隊の侵略への民族自決の戦いとイスラムの共産主義への戦いの二面性があった。特にイスラムの戦いはソ連がもっとも懸念していたことではあるが、その予想以上にアフガニスタン国民の共産主義(ソ連)への戦いの激しい動機となった。
その相手が共産主義でなはなく、資本主義(アメリカ)であろうともイスラムの同胞でない勢力ということだけで戦いは続いたであろう。

その後、ソ連軍はアフガニスタン国内のイスラム勢力を鎮めることはできずに、引くに引けない状況となり、ソ連軍の駐留は10年続いた。結局、この侵攻は、反政府ゲリラとの内戦の泥沼にはまり、ソ連版ベトナム戦争ともいわれるようになったのであった。

米国がインドシナに介入したベトナム戦争では、500万人の難民が出たが、アフガニスタンでは、89年まででも550万人もの難民がパキスタンやイランに逃れ出ていたのだった。ゴルバチョフ政権下の86年になって、介入から手を引く方向を打ち出していた。ゴルバショフが進めていたペレストロイカ(立て直し)路線は、国民の支持なくしては遂行出来なかった。アフガニスタンでの戦いは、国民に極めて不人気で、ほとんどの国民はある種のうしろめたさを感じていた。親たちは、子供が戦場に送られることを非常に恐れ、アフガニスタン派遣へのステップとなる中央アジア軍管区への派遣にも震えあがった。くわえてソ連国内の社会主義経済建設の失敗やインドシナの社会主義国への援助などでソ連国内の経済は疲弊し切っていたのであった。もはや国民の神経を逆なでするような政策は継続不可能だったのであった。


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「3.ソ連軍撤退1- 降下か墜落か - 」に続く