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space『破壊と混迷の十字路・アフガニスタン取材記』vol.3space
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降下か墜落か

私がソ連軍駐留下のアフガニスタンに飛んだのは、88年の5月に始まったソ連軍の撤退がちょうど半分まで進んでいた9月末だった。
私はインドのニューデリー空港からカブール行きアリアーナアフガン航空のソ連製の旅客機ツポレフに乗り込んだ。飛ぶこと2時間あまり、機内アナウンスが流れた。「着陸に入ります。ベルトを締めてください」私は腰のベルトを締めなおした。

ところが、飛行機は一向に高度を下げない。私は羽田の記者クラブで航空担当もしたことがあるが、通常、飛行機は飛行場の20キロほど手前から徐々に降下を始める。
「おかしいな・・」と思っていると、ツポレフは突然、右旋回しながら急降下を始めた。まるで錐もみ状態で墜落するようであった。

私はカメラのスイッチをオンにした。どうせ墜落するならその瞬間を記録しておこうと思った。報道カメラマンの習性だった。カメラを肩にしようとすると、隣りに座っていたインド人の商人が「ノープロブレム(大丈夫)」と私の膝を押さえた。彼はこれがカブール空港への正常な着陸のしかただと言う。窓の外を見ると機体からは、白煙筒のようなものが次々と空中に落とされていた。

それは、反政府ゲリラ側から熱を探知して飛んでくるロケットミサイルを機体から逸らせる為に、故意に落としている照明弾だった。らせん状の急降下にも訳があった。通常の直線的な飛行場への進入降下ではゲリラ側からのロケットミサイルで簡単に撃ち落とされてしまうのだった。急降下を始めて15分あまりでアフガニスタンの首都カブールに着いた。
私はアフガニスタンの地を踏む前になんと空中で自分が戦場にいることを思い知らされた。

アフガニスタンは今回のアメリカによるテロ撲滅の戦いの場になる以前、私が初めて取材した88年から戦場だった。実際はソ連が侵攻した79年から、いや、さらに言えば1973年の7月にザヒル・シャー国王の外国旅行中にダウド元首相がクーデターを起こして、王制を廃止し共和制となった後、78年に軍部がクーデターを起こしたところから、アフガニスタンは既に政府軍と反政府勢力による戦場だった。
もう30年近くも内戦や侵略戦争の中でアフガニスタンの人々は暮らしている。


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初めてのカブール

首都カブールは、海抜2000mほどの山岳地帯にあり冷たい風が吹いていた。建物は土盛りで出来ていてまるで土塀が続いているようだった。走っている車は古いベンツのポンコツやソ連製の乗用車だった。乗っているのは軍人や役人たちだった。一般の人々は皆、歩いていた。車はカブール中心部の大統領官邸にも近い老舗のカブールホテルに着いた。

私は200キロ以上もある取材用のビデオ機材などを整理して、直に街に飛び出した。
反政府勢力を支援していたパキスタンのハク大統領の死はどんな影響をもたらしたのか、それとも影響はないのか。カブールとはどういう街なのか。私はいろいろな思いを胸に繁華街を歩いていた。改めて道行く人を見てみるとあることに気づいた。

イスラムの国アフガニスタンといえば、女性は皆、黒い一枚布のチャドリーという衣装を頭からすっぽり被り身にまとっていると思っていた。確かにその衣装で歩いている女性もいたのだが、多くの女性たちがスカートを穿いていた。若い女の子の中には、ミニスカートにハイヒールという姿も目立った。

アフガンツーリストで雇った通訳の男性ママジョンに聞いてみると、「ソ連が入ってきて内戦は続き、国民は政府側と反政府側に分かれるなど良いことがないが、イスラム色を弱めたいソ連と政府の方針でイスラムの戒律の解釈が緩やかになり、女性たちも好きな服を着ることができるようになった。これは大半の市民に受け入れられている」と教えてくれた。

すでに記したように、ソ連のアフガニスタン侵攻は、隣国アフガニスタンでのイスラム勢力の拡大がソ連領土のタジキスタン、ウズベキスタンなどのイスラム教徒たちに影響して独立運動などが起こることを恐れてのことだった。ソ連軍は首都カブールでは特にイスラムの解釈の緩和を進めていた。男たちも無精ひげ姿はあっても、多くが髭を剃っていた。小学校では女の子たちも男の子と一緒に授業を受けていた。

この頃、アフガニスタンの政権を率いていたのはソ連の後押しを受けたナジブラ大統領だった。
ナジブラ大統領はそれ以前のカルマル政権の急進的な共産化政策を批判して経済活動などの自由化を進めていた。ナジブラ大統領はもちろん自身がイスラム教徒であり、礼拝を欠かさなかった。私自身、大統領が跪き礼拝をする姿を取材したことがある。
しかし彼の自由化政策は一方でイスラムの解釈においても緩和を進めることにも繋がり市民は厳しいイスラムの戒律を緩やかに解釈していたのだった。それは現代のイスラム教の国の姿としてインドネシアやマレーシアなどで見られるようにごく普通のことであった。

今回、9月11日に起きたニューヨークのビル爆破テロなどの首謀者と見られるオサマ・ビン・ラディンを匿っているとしてアメリカのアフガニスタン攻撃の標的となっているタリバンは、こうしたイスラムの解釈の緩みを排除しイスラム教誕生の7世紀からの教えを厳格に復興しようとしてきた勢力である。

カブールの繁華街モハマド・ジョン・カーン通りには、ラジオ、ラジカセ、電気ストーブなどがところ狭しとぎっしり並んでいた。ここまでのところパキスタンのハク大統領の死は、カブールの街にはそれほどの影響を及ぼしてはいないようだった。ほとんどが日本製の商品も日本や香港からパキスタンのカラチ港に陸揚げされ、アフガニスタン国境に近い街ペシャワルを通ってカブールに入ってきていた。

パキスタンはハク大統領の死後も以前と変わりなく政治的にはムジャヒディンと呼ばれていた反政府勢力を支持していたのであるが、経済的にはパキスタン商人とアフガニスタン商人は繋がっていた。矛盾しているようだが、陸続きの国境を持つ世界の国々ではこうした現象がごく当たり前のことである。特にパキスタンとアフガニスタンの国境地帯にはペルシャ系の民族のパシュトゥン人が住んでいる。彼らは政治とは別のところで同じ民族としての絆と利害で結ばれているのである。日本製の物資は国境を越えた同じ民族パシュトゥン人を通じて入ってきていた。

こうした国境を越えた民族の分布が国際問題を難しくしている。バングラデシュとミャンマー、カンボジアとタイやベトナム、そしてもちろん北朝鮮と韓国などである。この国境と民族の問題は、今、起きているタリバン攻撃においても同様である。パキスタンのシャリフ大統領は、テロ撲滅という大儀名文に加えて経済援助を見返りにしてアメリカのタリバン攻撃を全面支援している。しかし、国民はというと特にアフガニスタン国境に住んでいるパシュトゥン人の市民たちは、タリバンが同じパシュトゥン人でしかもイスラム教徒であることから、政府の方針とは反対に反米感情が高まっておりタリバンに同情的ですらある。


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「4.ソ連軍撤退2 - 冬のカブール - 」に続く