| 『破壊と混迷の十字路・アフガニスタン取材記』vol.4 | ||
▼冬のカブール 私は10月下旬までカブールを中心にアフガニスタンに滞在した後、一度、機材の補給などでバンコクに出た。そして11月はじめ、再びアフガニスタンに入り12月末まで取材した。 アフガニスタン各地では反政府勢力ムジャヒディンの攻勢が強まっていた。カブール郊外はすでにムジャヒディンの勢力下になっていた。11月中旬、それまで連日、続いていた反政府勢力からの市内へのロケット攻撃は止んだ。しかし首都カブールは12月に入ると雪が降り寒さが増すと街の情勢は厳しさを増してきた。 カブール市内のインド大使館前には毎朝8時半前には、数珠繋ぎの人の列ができていた。インドへの入国査証(ビザ)発給申し込みをする人たちであった。ソ連に後押しされる政権下の都市部で商売などをしてきた人たちは、翌年の2月15日に予定されているソ連軍の完全撤退が近づくにつれて、不安が恐怖に変わり国外への脱出を始めていたのだった。インドは当時、親ソ連の国で商人の行き来も盛んだったことからアフガニスタン人へのビザを制限も緩く発給していた。発給を受ける人たちの中には、政府高官やその家族の姿も少なくなかった。権力を持つものか、裕福な者だけが逃げ出すことができるようであった。 一方で、市民の生活は、厳しさを増してきていた。夜間は戒厳令が敷かれていた。寒さも零下になる中で、燃料油が底をつき始め暖房は使えなくなっていた。私が泊まっていたカブールホテルでも一切、暖房は使えなかった。私は防寒コートを羽織った取材着のまま毎晩、寝ていた。市民も誰もがコートに身を包んで夜を過ごしていたに違いない。電力供給は12月に入ってから1日6時間に制限されていた。それも電気が供給されるのは市内の中心部だけだった。ほとんどの家庭では日暮れから就寝までの数時間ランプをともすのが精々だった。主食のナンというパンや羊の肉、野菜などは軒並み2倍から5倍に値上がりした上に、供給も減っていった。当然、電気街でも商品は少なくなり、人通りもパッタリと無くなっていた。幹線道路がムジャヒディン勢力の攻撃で寸断され、トラックでの物資輸送が難しくなっていたからだった。カブール市民の物資の供給源であったパキスタンとカブールを結ぶジャララバード街道は、11月初めから完全に封鎖されたままだった。 こうした状況は既に地方の都市が広範囲にムジャヒディン勢力に抑えられていることを示すものだった。私は地方都市の状況こそ取材しなければならないと、パキスタンとカブールを結ぶ幹線にある要衝の街ジェララバードへ向かうことにした。 幹線道路はムジャヒディンに抑えられていることから政府軍に頼み込んで軍用機で飛ぶことにした。今回のタリバン掃討の戦いでも北部同盟がカブールを押さえた後、この幹線を車で移動しようとしたジャーナリスト達がタリバンなどの攻撃を受けて死亡しているように、内戦では都市部を制圧しても地方まで含めた面をコントロールするのは極めて難しく時間の掛かることである。戦いの場では決して油断をしてはいけない。私の出発は深夜だった。昼間ではムジャヒディンのロケット攻撃の餌食になってしまうからであった。私が他の外国人ジャーナリストと一緒に乗ったソ連製の輸送機は、電気も無く静けさに包まれていたカブールの街にプロペラの音を響かせながらジェララバードへ向けて急上昇していった。 | ||
▼密貿易の中継基地ジェララバード カブール東部の町・ジェララバードに着いたのは、午前0時を回った時だった。輸送機を降りるとそこには闇の中に滑走路が延びているだけだった。私たちは迎えのバスに乗り込み宿に向かった。宿は2階建て、暖房こそ無かったが電灯は灯っていた。私たちは翌早朝の取材に備えてベッドで仮眠することにした。 ジェララバードはパキスタンにある国境の町ペシャワールに通じる要衝だった。パキスタンとアフガニスタンの物流はここを介して行われる。それは今も昔も変わらない。それだけにアフガニスタン駐留ソ連軍とナジブラ政府軍、それに対峙する反政府勢力ムジャヒディンの双方にとって重要な場所だった。この町にカブールから来るのに陸路は反政府勢力が抑えていて通れないことはソ連軍と政府軍の劣勢の証だった。 ジェララバードからパキスタンのペシャワールにかけての一帯では、日本人では想像できないような密貿易が続いていた。それはパキスタン軍の反政府勢力に対する思惑と前回にも述べたが国境を跨いで暮らすパシュトン人対策が絡んでのことである。ソ連軍と戦う反政府勢力の収入源としてパキスタン軍は黙認せざるを得なかった。加えてパキスタン国内に人口の16%を占めるパシュトン人を抱えていることが密貿易を容認せざるを得ない要因だった。 現在でもパキスタンのアフガニスタン国境には、パシュトン人が実際上の自治区を設けている地域が南北の長さ約1000キロ、東西の幅50から200キロにわたって広がっている。アメリカの攻撃に対して反対する暴動が起きたクエッタなどの町はこの地域に隣接した地域である。陸続きに民族が分布している国々ではこうした曖昧さがついてまわる。米英等の植民地支配によって引かれた国境線が民族に刻んだ現実である。 密貿易はこの一帯に住むパシュトン人たちの生計を支えていた。密輸は、アフガニスタンが内陸国であるため、パキスタンを経由してアフガニスタンにモノが輸入される場合、パキスタン政府は関税をかけないという以前からの取り決めを悪用して行われていた。いったんアフガニスタンに正規輸入された商品を、裏道の国境を抜けてパキスタンに戻し、パキスタン市場で売ることで脱税している。パキスタン軍は経済問題以上にパシュトン人の治安維持や反政府勢力(後のタリバンも含まれることになる)への支援といった軍事的な安全保障を優先していた。 今回のアメリカのアフガニスタン攻撃に関しては、タリバンはパシュトン人勢力とはいっても、その行き過ぎたイスラム原理主義には一般の多くのパシュトン人も辟易とした状況であったことやかつて反政府勢力と対峙していたソ連も崩壊していることで、タリバンが崩壊してもパキスタンの安全保障を脅かす脅威が存在しないという事情がある。それにアメリカがパキスタンに対する経済制裁を解いたことでパシュトン人対策の経済政策も取れるようになるという読みがあった。また、何よりも反アメリカ感情が多少あるにせよ多くのパシュトン人たちも平和を浴していたのである。 | ||
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