| 『破壊と混迷の十字路・アフガニスタン取材記』vol.5 | ||
▼おんぼろバスで戦場を行く ジェララバードに着いた翌朝7時。私たちはナジブラ政権軍の戦車の護衛を受けてパキスタンとの国境にある町・トルハムへと向かうことになっていた。 パキスタンからトルハムを抜けジェララバードへと向かう幹線道路は翌年89年2月のソ連軍の撤退を前に政府軍と反政府勢力の間で激しい戦闘が繰り返されていた。10月末から11月にかけては特に激しい攻防戦があり、私たちが取材したのは政府軍が2週間あまりの反撃で漸くと幹線道路沿線を奪還した翌日だった。道路は押さえたものの当然その周辺は反政府勢力に包囲されていた。 集合時間の6時半、私は重さ10キロのビデオカメラと三脚など20キロ以上の機材を持って宿の玄関におりた。トルハムまでの案内役であり護衛でもある政府軍の兵士たちが、兵員輸送車と一緒に待っていた。欧米のジャーナリストたち10人ほどもおりてきた。出発の7時になった。 ところが私の相方の記者が降りてこない。出発時間は過ぎていく。私は宿の階段を駆け上って相方を呼びに彼の部屋に入った。相方はトイレの中だった。額に汗するほどの激しい腹痛だった。とても出発できそうになかった。私はカメラマンジャケットの中に常備している細菌性の下痢止めの抗生物質バクタを彼に飲ませた。そして私は兵士に出発を遅らせてもらおうと、急いで玄関に戻った。 だが其処にはもう輸送車も兵士もジャーナリストたちの姿もなかった。取材陣は出発してしまっていた。仕方の無いことだった。戦場では、1分の時間の遅れが命取りになる。幹線道路沿線の部隊と連絡をとりながら戦闘現場を進むのであるから予定時間は守らなくてはならない。今度は重い足取りで部屋に戻った。相方はまだ痛そうに顔を歪めていた。兵員輸送車が行ってしまった以上は、もう安全を確保して国境まで行くことはできない。 しかし私たちは諦められなかった。取材陣の中に、日本のテレビクルーは私たちNHKだけだった。私たちが行かなければ最前線の様子を日本に伝えることはできない。30分ほどして、相方の腹痛が治まってきた。どうやら抗生物質が効き始めたようだった。私たちは宿に残っていても護衛の軍が入る訳ではなし、同じ危険なら前線に行こうと決めた。表に出ると夜の静けさが嘘のように朝陽の逆光の中を人々が行き交っていた。私たちは車を雇うことにした。しかし民間の車など走っていなかった。そこへ一台の斜めに傾いて走っている古いバスが通りかかった。乗客はいなかった。私たちはトルハムまで行きたいと運転手に交渉した。「危険だ」という。私たちは「危なくなったら戻るから」と運転手を説得してバスを雇い上げた。人波の列に逆らうようにおんぼろバスは2車線の道をまっすぐに国境を目指した。 古びた額縁のようなバスの車窓からは乾燥した平原と緩やかに続く丘陵ばかりが続いていた。すれ違うのはヤギを引いた老人や麻袋のようなものを担いで歩く人たちだった。兵士の姿などどこにも見えなかった。ここが本当に戦場なのか。バスは進んだ。 20キロほど進んだところで、突然、バスの左側近くで砲弾が炸裂した。そして次々と10秒間隔くらいだったと思うがバスの両方向の一帯で砲弾の炸裂が始まった。私は恐怖を感じる間もなくカメラを左右に振り回しながらシャッターを切った。それはまるで映画のシーンのようで現実のものとは思えないほどだった。 着弾地点は近いもので30から50m。遠くは500mほど離れていただろうか。どちら側の兵士が何を狙って打ち込んでいるのか、まったく分からなかった。兵士の姿があるわけでもなかった。でも間違いなく砲撃は続いていた。誰が何のために砲撃を続けているのか、何故、こんなところで。道路には市民しかいなかった。皆、伏せていた。彼らも何故、武器も持たない自分たちが砲撃にさらされるのか分からないままに頭を抱えていた。今回のアメリカによる空爆シーンをテレビで見るにつけ、私はこの時のことを思い出した。テロリストやタリバンの兵士はアフガニスタンの人々のごく僅かにすぎない。人々の多くは何故、突然に空から雨のように爆弾が落ちてくるのか、その理由も分からないままに逃げ惑い、地べたに顔を伏せていたに違いない。 | ||
▼ニエット(NO!だめだ) ソ連軍のヘリは飛び立った バスは砲撃の中を何とか走りぬけて、谷間に入った。そこには百人ほどの住民が谷の裾に張り付くように隠れていた。砲撃は続いた。私は避難している人々を映像取材した。すると突然、上空からヘリによる機銃掃射が始まった。谷の向こうに反政府勢力の兵士がいるらしかった。反政府勢力はロケット砲で応戦していた。谷間にもロケット弾が落ちてきた。砲撃と機銃そしてロケット弾、それぞれがドーン、ダッダッダッ、シュルシュルシュルダーンと音を立てて黒煙を上げていた。2時間以上も攻防は続いた。 私たちはこれ以上先に行くことは危険と判断した。それに取材としても国境への幹線道路で激戦が続いていることがはっきりした以上、政府軍が幹線を抑え切れていない実態も取材できた。それで十分だった。バスに戻ると、運転手の姿が無かった。探してもいない。どこかに消えてしまっていた。確かに帰路も砲撃に遭うことは間違いない。運転手の気持ちも理解できた。。私たちは離陸しようとするソ連軍のヘリを見つけた。 500mほど、走って走って走った。帰るにはこれしかないと、ヘリに手を掛け乗せてくれと頼みこんだ。ところが、一言、ソ連兵は「ニエット(だめだ)」と言い残して、ヘリは飛び去った。また、砲撃が始まった。私たちはまた、谷間に戻った。結局、私たちは前線から戻ってくる政府軍の戦車を止めて乗せてもらった。戦車は安全かというとそうでもない。砲撃している側からすれば完全な標的となる。しかし、他に選択肢はなかった。物凄い振動と砲撃の音が反響する戦車の中で私たちは砲弾の横に座って、ジェララバードまで帰りついた。 私たちが宿に着くとまだ誰も帰ってきていなかった。時間通りに出発した取材陣は私たちより遅れて帰ってきた。包帯を巻いている。8人が傷を負っていた。砲弾が兵員輸送車の脇3mに落ちたという。殆ど直撃である。一人は足が吹き飛んでいた。戦場では何が幸いし災いとなるか分からない。乗り遅れた私たちは危険な状況に置かれたとはいえ、怪我はしなかった。予定通りに軍と行動を共にした人たちが被弾した。戦場では何が安全で何が危険か判断は難しい。何を信用できるかも分からない。味方と思っても「ニエット(だめだ)」と言われることもあるのだから。私たちはその夜、輸送機でカブールに戻った。 | ||
▼ソ連軍撤退完了 カブールではソ連軍の撤退が進みだしていた。撤退後の体制や国連の関与などについて、紆余曲折があったものの89年の1月から2月にかけては一日に3000人の兵士や500台から800台の車両がソ連に向けて撤退を続けていた。それに伴って撤退完了予定の2月15日が近づくにつれカブールは反政府勢力に包囲されていった。政府軍はカブール市内と国内の都市を点において何とか確保しているに過ぎなかった。 ブレジネフ政権が始めたアフガン侵攻の暴挙は9年と2ヶ月の時を経て、改革・ペレストロイカを進めるゴルバチョフによって漸くと終止符が打たれた。 89年2月13日午後2時。カブール空港で最後まで警備にあたっていた15人のソ連兵が巨大輸送機アントノフに乗り込んだ。2日後の15日には、陸路の部隊が国境を越えた。私はそれらを見届け取材した。 ソ連は国家財政を破綻に追い込むほどの戦費をつぎ込み、100万人以上のアフガン国民と1万5000人のソ連兵の命を奪った。ソ連兵が飛び立った後のカブールは、道路が破壊され、ビルは朽ち堕ちていた。決して平和が訪れた訳ではなかった。ソ連の傀儡のナジブラ政権と反政府勢力がその後の体制をめぐって銃口を向け合う構図は何ら変わっていなかった。実際、カブールは3万人の反政府勢力に包囲されていた。 私たちNHK取材クルーは、2月19日、日本に帰国のためカブール空港を後にした。 ソ連製の旅客機ツポレフは、私が初めてカブール入りした時とまったく同じように反政府勢力のスティンガーミサイル攻撃を避けるためにらせん状に急上昇していった。ソ連兵はいなくなった。しかし空から見下ろすカブールやアフガンの大地は以前と何が変わったのか、その違いが私の目には映らなかった。「戦争は何も生み出さなかった」当時、ソ連国内で言われた言葉である。 | ||
| 「6.破壊と混迷の十字路」に続く | ||